私の問題解決の考え方 第12章2

12.3  うまく行っていたのに

1.ほぼ目標達成?

母は、年を取り、一人暮らしが難しくなっても、わが家へ来ることも、養護施設に入ることも拒み続けていました。それが、母が脳梗塞になったことで、母は養護施設に入ることに同意してくれました。

わが家の近くの施設に入居後、そこでの生活に、2010年の暮れまでになんとか慣れることができました。そして、2011年には、施設のいろいろな行事に参加し、楽しめるようになってくれました。

さらに、その年の暮れには、当初の計画通り、数ヵ月後には、ほぼ2年前に申し込んであった特別養護老人施設に入れそうなことも分かってきました。ここに無事に入れて(歩いて)、ここでの生活に慣れれば、母の問題解決の目標がなんとか達成できたと言えるのです。


2.しかし、・・・

2012年になり、1月下旬に、施設のお出かけ行事で近くのイチゴ園へ行きました。ところが、暖かいハウスの中へ入ったときに、母は気分が悪くなってしまいました。すぐ、施設に戻り、休んでいたのですが、気分の悪いのが続き、話すのも大変で、血圧も低くかったので、病院へ行き、検査をしてもらいました。そうしたら、貧血だと言われました。

心配した主治医のJ先生のところで超音波検査をすると胃のあたりに腫瘍のようなものがあることが分かりました。それで、再度、病院へ行き、精密検査をしてもらいました。


その結果が2012年1月末に出ました。外科のT先生から母に結果が告げられました。即ち、胃ガンで、進行度II-III(胃壁の外側まで達しているかどうかというところ)と言われました。

この段階ではガンを完全に取るのは難しいが、病状緩和と延命のために、胃の一部を切除することが考えられる。但し、母の年齢のことを考えると、手術にはかなりの危険性が伴うと言われました。また、化学療法や放射線療法は使えないと言われました。


3.さてどうするか

先生にどうしたいかを聞かれた母は、とっさに、何もしないでくれと答えたのです。

私はちょっとびっくりしました。というのは、前の年の暮れから、母に認知症の症状が出てきた(反応が少し鈍い)ように思えていたのです。ですから、先生の説明をきちんと理解できないのではないかと心配していました。でも、先生の前では、頭がはっきりしていたようでした。

今後の方針について、私は、母の望むようにしたいとは思ったのですが、このままでは、胃を食べ物が通らなくなり、痛みも出てくるとのことなので、手術をしないというのも心配でした。そこで、先生の意見を聞いたのですが、分からないと言われました。勘でもいいからとさらに聞いたのですが、結局どちらとも言ってもらえませんでした。

そこで、もう少しこちらで考えると言い、帰ってきました。帰ってから、インターネットで調べながら考えました。放射線療法、化学療法、食事療法、免疫療法、温熱療法などいろいろありましたが、私は食事療法(玄米)に着目しました。私は、手術以外の方法なら、副作用がない食事療法しかないかと考えました。知り合いがガンになったとき、玄米を使った食事で治る例についてかなり勉強していたので、施設に玄米粥をいつも届けるようにしようかと思いました。


一方、施設の主治医のJ先生と看護師さんからは、手術を強く勧められました。最近は高齢者がどんどん手術を受けているとも言われました。J先生は、母が自分の母親であっても手術を勧めるとまで言ったのです。実際に、そういう高齢者の人とも病院で会いました。そして、考えてみたら、母より少し若い、私の叔母(叔父の嫁)も高齢でガンの手術を受けていました。

そこで、母にこれらのことを話すと、今度は、手術を受けると言いました。母は西洋医学をかなり信じる方(私より肝が太い)だったので、母の頭が前の状態に戻ってきたのではないか、そして、生きたいという気持がまだ強いのではないかと感じました。

私としては、高齢の母に手術は大変だと思い、うまく行かない可能性はあるものの、母とJ先生達の気持にかけてみようかと考えました。

ということで、再度、病院へ母とともに行って、T先生に手術をお願いしました。


母は、このときも、前より頭がはっきりし、自分がガンと戦うのだという意識を持っているように見えました。

このように、手術が決まったのですが、さらに検査され、手術近くになり血圧が上がったりして、数日遅れてしまいました。それにより母は疲れたようでしたが、なんとか手術の日になりました。

4.でも、結局、駄目でした

しかし、手術にとりかかったとき、ガンの進行がとてもひどくて、手術不可能ということが分かりました。

約1週間で退院となり、施設に戻ってからは、食欲がなく、元気がありませんでした。

あんなに手術を勧めた、施設の看護師さんが今度はもう駄目だと諦めてしまい、食べ物が通らない、出血だ、痛みが出てきた(どれも違っていた)と心配ばかりするようになりました。そして、やたら、食欲がないと言い、点滴や栄養食に頼ろうとしました。

しかし、母が弱ってきたのは確かで、家で玄米粥を作ってきたら、一回は美味しいと言い、食べたのですが、その後食べられなくなりました。また、血圧が下がったり、血中の酸素濃度が下がったりすることが多くなりました。そして、痛みがあるとは言いませんでしたが、息をするのが苦しいと言うようになりました。

この時点で、看護師さんに、この施設では、高栄養の点滴も酸素吸入もできないので、病院へ移ることを考えるように言われました。

私は、また移ることで母はさらに疲れるので、ちょっと待ってもらいましたが、結局は病状が好転しないので、病院へ移る決断をしなければなりませんでした。

その結果、移ってから、2,3日はいくらか元気になり、少し食べたのですが、その後は、点滴も酸素吸入も効果なしで、約10日後に亡くなってしまいました。

私は、悲しいより、ただ悔しかったです。結局、母を救えなかったのです。

この問題解決は大失敗でした。

今回の母の問題は、これまで私の出会った問題の中で一番難しいものでした。ですから、それだけ多くの人達の助けを借りました。また、自分でもいろいろ勉強しました。

そして、いつものように、できる限り、自分で考えて、判断してから、行動するように努力しましたが、今回はそれがうまく行きませんでした。

一つには、考えるために必要な情報が得られなかったことで、もう一つは、早く行動しなければならず、考える時間がなかったことです。いや、母の病状を考える、何をやっても駄目だったかもしれません。

そういうときにやるのは、どちらも同じで、私の直観、というか、勘に頼ることでした。でも、どんなときにも、言われたことを鵜呑みにはしませんでした。

それで、どこまで正しい判断ができたかは不明です。それが、母をかえって苦しめてしまったかもしれません。しかし、母が一人の人間として、自分の問題を認識し、諦めないで、最後まで頑張ったことは確かです。私も一緒に頑張りました。私の家族も皆頑張ってくれました。

それは、私達全員が、母の問題を自分達の問題として捉えていたからで、誰も失敗することなど考えていませんでした。

しかし、母は亡くなってしまいました。


施設の看護師さんや、最後の病院のお医者さんと看護師長さんからは、母がもうすぐ死ぬのだということを受け入れるように言われていました。しかし、私達家族はそんなことは全く考えていませんでした。

特に、母は、最期のとき、私も一緒で、規則正しく、できるだけ大きく息をしようと頑張っていました。そうすると、血圧と血中酸素濃度の値が落ち着くことに私が気づいたからです。10数分そういう状態だったでしょうか、その後一瞬で、母は呼吸をしなくなってしまいました。

担当の看護師さんが人工呼吸をやってくれましたが、駄目でした。

この人にはとても感謝しています。この人は、最後まで、少しでも長く母を生かそうと努力してくれたのです。

この病院へ入ったときに、主治医の先生から、母がもう助からないということを認識してもらいたい、痛みが出たときは感じないようにしてくれる、そして、最後は延命処置はしないと言われました。(そして、その後、母の様子をあまり診てくれませんでした。)

私は、「分かりました」とは言いましたが、まだ母が、高栄養の点滴と酸素吸入で持ち直すかもしれないと思っていたのでした。

結局、先生が正しかったのですが、私は、担当の看護師さんの最後まで諦めない態度を忘れません。

そして、母も最期まで諦めずに生きようとしました。


12.4 まとめ

本章の問題は難しいもので、結果として失敗でした。

でも、母が、できる限り自分の意思で、楽しく、生きられる時間を少しでも長くしてやりたいという気持ちで挑戦しました。

身内としては当然のことだと思います。目標達成前に母が亡くなってしまうことは考えていませんでした。むしろ、母が私より長生きした場合、経済的に大丈夫かどうか、ということを真剣に考えた計画を立てていました。

1.今回の問題では、世の中には、できないことや分からないことが沢山あるのだということを改めて思い知らされました。ですから、自信を持てないのは当然のことなのです。変な自信は持たない方がいいです。

2.私には経験の少ない、自分としては関わりたくない問題でしたが、母の問題ですから、私の問題として取り組みました。

3.そして、私の問題解決の持論である、「まんずやってみれ!」を実行しました。即ち、とにかく、問題解決に着手しました。そして、いろいろな人達の助けを借りながら、できるかぎり考えながら、行動しました。

この癖がつくといいことは、一回始めてしまえば、よく考えると怖いことでも、そうでもなくなることです。言い換えれば、度胸が据わりやすくなるのです。

4.一方、全体の計画は、私にしてはよく考えてはいたのですが、末期のガンの発見からは、暗中模索の状態でした。多くの人達の意見を参考にしながら、私の勘に頼り決断するしかなかったのです。

十分な情報や時間がないときなど、こうするしかないのです。

5.ほとんどの場合、何かがどうなるかは決まっているのです。私達がそれを知らないだけなのです。だからこそ、大きな目標を掲げて頑張ったのです。もしかしたらうまく行くかもしれないと思えることは、私達に希望と諦めないで頑張る原動力を与えてくれるのです。

6.極力、誰にでも、素直で正直になるよう心がけました。嘘をつくと、事実をもとに行われるべき問題解決に大きな支障を与えるのです。母には勿論、病院や施設の大勢の職員さん達にもそうしました。

7.そして、私(母)の問題について、なるべく多くの人達に話して、私達の希望や計画を理解してもらうよう努めました。とにかく、多くの人達と話をするのはとても大事なことであると考えます。

8.聞いたことを鵜呑みにしない、自分で考えて、判断、行動するよう心がけました。しかし、本章では、自分の直観に頼ることがかなりありました。



最後に、残念なこと

実は、ガン発見の1年半ばかり前、母が介護施設へ移る直前に、病院で母に何か病気がないか検査していただいたのです。胃カメラ検査もお願いしたのですが、主治医のA先生に反対されてしまいました。

そのときの母の体力と年齢を考えて、内視鏡検査は勧められないと言われて、この検査はしなかったのです。検査をし、ガンが見つかったから、母を救えたかどうか分かりません。そのお蔭で、治療で母にもっと辛い思いをさせた可能性もあります。それでも、心残りです。



もう一言

母のガンが発見される3ヶ月ぐらい前から、実は、母が少し衰弱しているのではないかと心配になっていました。

肉体的というより、精神的にです。認知症の兆候が現れているように感じたのでした。

母が、そのころから、お世話になっている施設がとてもいいと何度も言うようになったのです。この養護施設に入ってから2,3ヶ月は施設に対する不満ばかりでした。それから、落ち着いてきても、いろいろな不平はいつも言っていたのです。

ところが、その母が、次第に施設が好きになってしまったように見えたのです。こんなにいい施設に入れてよかった、幸せだとまで言うようになってしまったのです。

確かに、施設で計画するいろいろな行事に参加して楽しかったこともあると思いますが、こんなに「気に入る」のはおかしいと思いました。

私は、ボケ(認知症)の症状が出てきたのではないかと考えて、市で行なっている、認知症に関する講座を受けて、認知症サポーターというものになりました。

そして、母の症状が悪化したときに備えようとしていたのです。

そのようなときに、母がお出かけ先で気分が悪くなり、病院で検査を受けたのでした。

もう一つ、同じ時期から、施設で食べられない、美味しいものを食べたいと言い始めたのです。ソーセージだの、エビだの、カニだの、ウナギだのを持っていくと、大喜びで食べました。さらに、夜中にスナック菓子を食べていたのが分かり、施設の看護師さんから注意を受けました。こういうことで体重が増えていると言われました。

母は、これまで、病院の食事だけに頼る傾向があったので、少し変だと思いました。もしかしたら、認知症で、自分を抑えられなくなっているのではないかとも考えられました。

そういう目で見ると、施設の人達に対し、やはり前より反応が鈍く、話を理解しにくくなっていると感じました。


そして、2012年になり、気分が悪くなったことから、検査の結果、重いガンにかかっていることが分かったのでした。

しかし、驚いたことに、ガンの告知で、母の頭がはっきりしてきたのです。お医者さんともしっかり話ができて、最終的には、手術の決断までしたのです。

それから、亡くなるまで、看護師さんや私達家族にいつもありがとうと言っていました。

最期のときも、一所懸命に、私と一緒に規則正しく呼吸し、生きようとする努力を続けていたのでした。生きることを諦めないで。


結果的には、何をやっても駄目な状態で、息をするのが苦しいとは言いましたが、ガンの痛みを感じることはなく(痛み止めを使うことなく)、母は最期まで意識はあり、発見から短い時間で亡くなってしまいました。

そして、残された私達は悔しい気持ちで一杯です。しかし、亡くなってしまったら、どうしようもありません。

母のためにも、皆で仲良く、悔いのないように、しっかりと生きていきたいです。


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